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戦争の悲惨さ 硫黄島 [独り言]

 毎年8月になると、戦争の悲惨さを扱ったテレビ番組が制作され、戦争で犠牲になった人たちが取り上げられる。
 その中には、どうして人は戦争をするのか、という問いかけをする番組もあるが、結論から言えば、戦争は人間の本質であり、人間の歴史は戦争の連続である。

 沖縄にしろ、東京にしろ、広島にしろ、あるいは現代のパレスチナやイラクにしろ、そこで可哀相な犠牲者として語られるのは、子供、女性、老人といった非戦闘員、民間人である。
 しかし、武装した戦闘員やテロリストが殺されるのは、むしろ当然とさえ、報じられている。
 これこそが人間の本質であり、戦争が絶えない理由である。

 人が人を殺すことを合理化し、正当化する限り、戦争は決して無くならない。
 つまり、無垢な子供や無抵抗な市民を殺すことを悪とし、犯罪者やテロリストを殺すことを善とする意識がある限り、戦争は無くならない。人は大切なものや愛する人を守ろうとするあまり、好むと好まざるとに関わらず、人を殺すことになるだろう。
 結局、人とは、愛するものを守るために人を殺し、その結果、愛する人を失っていくものなのである。
 こうした矛盾に満ちた存在が人間というものの本質ではないだろうか。

 61年前に行われた硫黄島での戦闘は、ある意味、本当の戦争である。
 硫黄島は、多数の民間人が犠牲になったサイパンや沖縄などと違って、幼い子供や女性、老人は犠牲になっていない。当時の硫黄島の住民約1000名は軍属として徴用された100名余りを除き、すべて本土へ疎開していた。
 61年前の硫黄島は、純粋に日米の軍人が互いに殺し合うことを目的として集まり、そして、予定どおり、互いに殺し合った凄惨な現場である。

 硫黄島の戦争に善悪は無い。日米の兵士は、互いに武器を持って殺し合ったのであり、最初から死ぬべき運命にあったのである。
 そして、それが戦争というものの真の悲惨さであろう。

 硫黄島の戦闘の目的は、一言で言えば、終戦のため時間稼ぎである。レイテ、マリアナの海戦により、主要艦艇のほとんどを失った当時の日本の海軍力から考えて、太平洋の孤島である硫黄島を確保し続けることは全く不可能な状況であった。
 1944年7月、サイパンが陥落し、対米戦争を始めた東条内閣が倒れたときに、中国における日本の権益をアメリカに認めさせるという戦争の本来の目的は達成不可能となり、以後、戦争の目的は、いかに有利な条件で戦争を終わらせるかと言うことに移っていく。
 硫黄島の戦闘は、そのための時間稼ぎであり、捨て石であったとも言われる。しかし、捨て石は、本来、犠牲となった石よりも大きな成果を得るために置かれる石である。その意味では、硫黄島の戦闘は余りにも犠牲が大きく、捨て石以下かも知れない。

 それでも硫黄島の日本軍は、よく戦い、与えられた使命を実によく全うした。つまり、本土決戦のための時間を稼ぎ、より多くの米兵を殺したと言うことである。
 日本軍守備隊の司令官栗林忠道は、戦後、名将として米軍からも讃えられている。米軍の10分の1以下という戦力を率いて、海空軍の支援も無く、弾薬はおろか、水や食料の補給も無い孤立した状態で、損害の絶対数においては彼我ほぼ同数という戦闘結果は確かに賞賛に値するであろう。
 また、当初の目的である20,000名の将兵を犠牲にして、約2ヶ月、米軍を引き付けて、時間を稼ぐという目的もほぼ達成されている。

 悲惨な硫黄島の教訓から学ぶべきことは、戦争を止めることの難しさである。
 戦争を始めることは避けられないかも知れない。しかし、戦争の目的が達せられたとき、戦争は止めるべきである。それができなければ、戦争とは、本当の意味で、全く無意味な単なる殺し合いになってしまう。

 硫黄島で、まだ組織的な戦闘が行われていた1945年3月10日、東京は大空襲に見舞われて、10万人以上が死亡した。この時点で、硫黄島で日本軍が戦う意味は失われてしまった。
 本来、日本にとっての硫黄島の戦略的な価値は、東京とサイパンとの中間に位置し、アメリカの一大航空基地となったサイパンからの東京に対する攻撃を防ぐための最前線の防衛拠点というものであった。しかし、硫黄島の戦闘の帰趨にかかわらず、アメリカが東京に対する大規模な攻撃を可能とした時点で、日本にとって、硫黄島で戦う意味は無くなってしまった。
 これ以後の戦いは、アメリカが硫黄島に建設した航空基地の安全を確保するためのものに過ぎなくなる。

 3月から8月の終戦までの時期、さらに数千名の日本軍兵士の命が失われたと言われる。
 もしも、3月26日に栗林将軍以下、司令部が全滅した時点で、残余の日本軍が降伏していれば、相当数の兵士の命が失われずに済んだことであろう。

 確かに戦争には目的があるかも知れないし、ひょっとしたら、やむを得ない戦争というものもあるかも知れない。しかし、一度、戦争が始まれば、何の意味もなく、無駄に人の命が失われていくのが戦争というものであることを忘れてはならない。

 今、我々が学ぶべきことは、なぜ戦争を始めるのかではなく、どうしたら戦争を止められるか、ということであろう。


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