「カリギュラ」 蜷川幸雄、小栗旬、勝地涼、長谷川博己、横田栄司、若村麻由美 [演劇]
アルベール・カミュ原作の「カリギュラ」という戯曲は、とんでもなく難しい。
3回観たが、それでも良く分からない。
ただ、何となく分かったことは、カリギュラのダンスを美しいと褒める貴族たちは、小栗旬くんの肉体・裸体を美しいと褒める観客自身の舞台上への投影なのだろうと言うこと。彼らを愚かと笑うことは、自分自身を笑うことに等しい。
この「カリギュラ」という戯曲は、決して褒めてはいけない作品なのかも知れない。
優れた演出家が素晴らしい才能を持つ俳優にカリギュラを演じさせ、作品の魅力を最大限に引き出したとき、それ故に、この戯曲は否定されなければならない存在となるように思える。まさに、不条理の極みのように・・・。
この戯曲が書かれたのは1945年、ド・ゴール率いる自由フランスの本拠地、アルジェリアの出身で、自らもレジスタンスに身を投じたカミュが「カリギュラ」の中に、ナチス・ドイツのヒットラーの姿を重ねていたのは間違いないであろう。
大衆に愛され、民衆の熱狂的な歓迎の中、独裁者、すなわち皇帝(ラテン語の皇帝、インペラトールは、すなわち独裁者)の地位に登った男。
ドイツだけでなく、フランスやアメリカにも、彼の信奉者は少なくなかった。
カリギュラは暴君であり、有害であり、それ故に倒されなければならない。しかし、その暴君を産み出したのは誰か? それは、他でもない、暴君の犠牲者たちであろう。
カリギュラの臣下であると言うことは、まさに死刑に値する。この罪を逃れるためには、臣下であることを辞め、反逆という死に値する罪を新たに犯さなければならない。どちらにしても、死から逃れることはできないという不条理。
正義の名の下に戦争が行われ、多数の血が流される。独裁者、暴君を倒すための戦争により、暴君が殺した数以上の人々が死んでいくという不条理。
この「カリギュラ」という戯曲は、意外と奥が深い。
下手な演出家が生半可な俳優に演じさせたら、舞台はボロボロになって、評論家連中から酷評されるだろう。
しかし、それこそ戯曲「カリギュラ」の本来あるべき姿なのかも知れない。
皇帝カリギュラがケレアに殺されることを待ち望んでいたように、戯曲カリギュラは葬り去られることを望んでいるのかも知れない。
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